肖像画家 高野秀樹のブログ

絵画に関するエッセイをメインに、紀行文なども記載。

織田信長の最も有名な肖像画(長興寺所蔵)


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       織田信長の最も有名な肖像画(長興寺所蔵)

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【1】 織田信長肖像画(一)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について 
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
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◆【1】織田信長肖像画(一)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 織田信長を描いた肖像画の中で興味深い作品が数点存在する。

 織田信長肖像画(一)では、1583年に描かれた愛知県豊田市長興寺の
信長像を取り上げる。

 またこれと比較するため、現在は神戸市立博物館に収蔵される、同年
描かれた束帯姿の肖像画も併せて紹介。

 長興寺の肖像画はこれまで歴史の教科書に数多く掲載されているため、
多くの方の脳裏に浮かぶのではないだろうか。


★★★織田信長肖像画(長興寺蔵)はこちらをクリック

◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名:織田信長の肖像
作者名:狩野宗秀季信
材 質:紙本著色(竹紙に日本画・軸装)
制作年:天正11年(1583年)
所在地:三河・長興寺(愛知県豊田市
注文者:与語久三郎正勝
意 味:信長の一周忌にあたる天正11年(1583年)6月2日に、家臣であった
注文者が報恩のために描かせて寺に寄進した。


◆【3】像主・織田信長(1534-1582)について━━━━━━━━━━━━◆

 室町後期の日本において、天下統一の寸前まで到達していた戦国大名
ある。また経済にも通じた優れた政治家だった。

 尾張名古屋の守護代の家臣だった一族に生まれた織田信長は、1582年までに
現在の中部、北陸、近畿、中国地方の一部を含む17の県に該当する国土を
ほぼ手中にしていた。

 さらに中国、四国の平定も目前に控えていたが、家臣明智光秀の謀叛に
合い京都本能寺にて自害した。

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 彼は一面において、芸術家的な審美眼と才能の持ち主であり、
狩野派絵師や茶人の千利休など多くの芸術家を活用している。

 部下への褒美に領地を与える代わりに、高名な茶器や、茶会を開催する
権利を与えたが、これは信長が独自に考案した制度であり、かつまた
敵対する大名に対しては美術品を贈ることで懐柔を試みたりもした。

 幸若舞や南蛮渡来のファッションへの嗜好。
天下の名馬を揃えた御馬揃えの大行進の企画。
そして天下の奇城といえる安土城の綜合デザイン。

 現代に生まれたとしても、当代一流の人物だったろうことは
想像に難くない。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 絵師の名は狩野宗秀 秀信若しくは季信(すえのぶ;1551-1601)。
(秀と季が混同されて相伝。)元秀とも号す。


 足利幕府の御用絵師は、やまと絵系の土佐派、及び能阿弥・芸阿弥・
相阿弥という、漢画系の阿弥派絵師が有名であるが、

 室町後期から江戸時代を通じては狩野派の全盛期である。


 狩野家絵師初代の正信(1434-1530)は、一族で初めて幕府の御用絵師
として取り立てられた。

 第2代の狩野元信(1476-1559)は土佐派との姻戚関係を持つことで、
漢画的な画風の中に大和絵的な柔らかさを取り入れ、狩野派の様式を確立
させた。

 第3代 狩野松栄直信(1519-1592)は穏健な画風で知られている。

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 信長の時代に狩野派一門を率いていた総帥が 第4代 狩野永徳洲信
(くにのぶ;1543-90)であり、

 本作品の作者である狩野宗秀はその弟だった。宗秀の下には
休白長信という弟もいた。

永徳の名声は、当時も今も非常に高い。安土城の内部装飾の総責任者で
あり、信長のお気に入りの絵師であった。

 信長の没後は天下人・豊臣秀吉聚楽第大阪城の障壁画を一手に
引き受けた。


 そのために、永徳の弟の宗秀に強い光が当ることはないが、
「四季花鳥図屏風」を見るとかなりの力量を持っていたことが分かる。

 ぎっしり埋め尽くされた画面の中の花鳥に、少しも違和感がなく、すべて
は、その空間にあるべきものであるがごとくに存在しているのである。

 その障壁画の構図には緊迫感があり、天才的なひらめきを感じさせる。
肖像画もよくし、「遊行上人絵」などの細密画にも長けていた。

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 宗秀は一族の長である兄を立て、尽くし、その指図に従って
万事、仕事を行っていたようである。

 1576年信長の下命により、永徳が一族郎党をあげて安土城の装飾工事
に参入するとき、宗秀と父・松栄は加わらなかったが、これは永徳の指示
み従ったためである。

 信長の仕事を請け負うことは名誉であると同時に、大きな危険を伴う。

 万が一、出来上がった障壁画が信長に気に入られなければ、どのような
咎めを受けるか分からない。よって狩野家全体が処分を受けることの
ない様、永徳に次ぐ実力者の宗秀を外したのである。

 こうして京都に工房を構えていた永徳の家屋敷はすべて弟・宗秀に譲渡
され、信長以外の顧客からの仕事を永徳に代わって差配することになった
のだが、

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 幸いなことに、1579年に完成した安土城天守閣障壁画の出来は、信長の
予想を超えるものであったため、永徳の危惧は杞憂に終わった。

 永徳は信長によって天下一と法印の称号を与えられた。

 信長の死後、狩野家は新たな天下人・豊臣秀吉大阪城聚楽第などの
装飾工事に大車輪の活躍を見せる。

 宗秀自身も信長時代から、秀吉の仕事に携わっており、覚えもめでたか
ったようである。1590年に、兄永徳が亡くなったときには内裏の障壁画を
引き継いで完成させ、1594年頃には法眼の称号も得ている。

 永徳の長男・右京光信(1561頃-1608)とは10才ほど年が離れていたので
宗秀が一時的に狩野宗家を引き継いだ形になったと思われる。

 1601年自らの死に当たっては、狩野宗家が絶えることのない様、また
跡継ぎの甚吉を、よきように取り立てていただきたいと、光信に宛てて
遺言書をしたためた。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 信長は裃(かみしも)姿で青畳の上に座す。衣は白い小袖で、胸元に赤い
襦袢をのぞかせている。

 袖なしの上着である肩衣は浅葱(あさぎ)色。袴(はかま)も同色の同じ
生地であり、裃という形式で呼ばれる。

 緑、赤、白という取り合わせは、いかにも婆沙羅(ばさら)で信長らしい。
緑とその補色の赤との面積対比が理想的で、赤をより鮮やかに効かせている。

 裃の両肩と両膝に、将軍足利義昭から貰った白い桐の紋。

 白地の小袖には一面に白い桐唐草模様が施されている。緻密で丁寧な仕事が
画像から感じられるだろうか。

 腰には小刀を差し、右手には金地の扇子、左手はこぶしを軽く握る。

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 青畳は、白地に黒で菊花紋を編み込んだ大紋高麗縁(こうらいべり)仕様
で、これは親王・摂関・大臣のために用いられるものである。


 背景はなく、明るい黄土色で処理され、
上部の画賛の位置には、以下の三行が記されている。


  天徳院殿一品前右相府
  泰岩浄安大禅定門
  天正十年壬午六月二日御他界


 「天徳院殿泰岩(たいがん)浄安大禅定門」とは、浄土宗・阿弥陀寺の清玉
上人ゆかりの戒名。信長の官位は正二位で右大臣職は返上済であったが、死後
従一位が追贈されたので、一品前右相府と記されている。

 最後に、天正十年壬午(みずのえうま;じんご)六月二日死去とある。


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 下部には、

  右信長御影
  為御報恩相
  当於一周忌之
  辰描之三州
  高橋長興寺
  与語久三郎
  正勝寄進之
  天正十一年六月二日

 「信長の一周忌にあたり、報恩のため肖像画を描かせ、
三河高橋長興寺に、与語久三郎正勝が寄進」とある。

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで勝利した織田信長は、翌年三河
攻め入り金谷城主(別名衣城)の中条氏を滅ぼした。

 建武2年(1335年)中条秀長によって創建された長興寺は、永禄10年
(1567年)信長によって焼失。その後に信長の家臣で金谷城代となって
いた与語正勝の手によって再興。

 正勝は、主君によって焼かれた寺を再興しておいた上で、その寺に
おいて主君の一周忌の法要を営んだのであり、それに間に合うように
狩野宗秀に肖像画を作成させたのだ。

 この狩野宗秀という作者名は、紙裏に「元秀」という印があるため、
判明したものである。

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 次に、信長の顔を見てみよう。
その眉間には、ハの字型に皺(しわ)が刻まれている。

 信長の眉間に刻まれた皺というのは、家臣を震いあがらせるような
不吉なものであったはずである。

 信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣した留守中に、外出
したため成敗された可哀想な女中たちの話はご存知だろうか。

 主君が外泊の予定を取り止めて早帰りしたところ、女中連がいない。
激怒した信長は、帰宅した彼女たちはそれをかばった長老もろとも
切り捨ててしまったのだ。

 茶坊主が信長の不興を買い棚の陰に避けたところ、棚ごとたたき切られた
という怖ろしい話も記録されている。

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 当時第一級の知識人で、朝廷や足利幕府に顔が利いた明智光秀でさえもが
扇子で叩かれたり足蹴にされたりしているようである。

 家中の者でなくとも、客人の面前で、打ち据え折檻された役者梅若大夫の例
がある。それは1982年5月19日のこと。

 客は徳川家康、3月に完遂した武田勝頼討伐の労をねぎらうための宴の席
であった。先に演じた幸若大夫の舞に比べ、梅若の能が下手だったという
理由である。

 これらの言い伝えから分かることは、信長が短気であったという事実で
ある。

 これは、信長に謁見したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書き残
した「人と語るに当り、紆余曲折を憎めり」という信長像にも合致する。

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 ただし、絵の中の信長は、拳を強く握り締めているようではない。

 眉間のハの字の皺も、よく見ると取って付けたような印象がある。
何より眉毛と連動していないのだ。

 ためしにこの皺だけを覆い隠してみると、信長は優しい顔をしている。
よく見知っているつもりでいたが、これは意外であった。

 この絵は、信長の一周忌のために作成された追慕像である。


 実はもう一点、一周忌のために作成された追慕像が存在する。

 画像のページに〈参考図〉として紹介した、神戸市立博物館所蔵の束帯姿
の信長像であるが、クローズアップしてみると、こちらの肖像には眉間の皺
が描かれていないことに気づく。

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 賛を見てみる。


 前住大徳現住総見古渓老拙賛
  天正十一年歳号癸未仲夏上浣日
  嘆
  天地何容箇一人
  心高出日月之上
  金枝永茂萬年春
  厳冷吹霜面目真
 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士肖像


 一行目に、
 大徳寺前住職で、総見院現住職の私、古渓宗陳(こけいそうちん)の賛
とあり、

  天正十一年 癸未(みずのとひつじ;きび) 六月上旬日
  嘆く…

 以下、信長を讃える七言絶句の漢詩が続き、
 八行目に、

 古渓宗陳による戒名「総見院殿泰巌(たいげん)大居士」及び、
 太政大臣従一位が追贈されたこと、そしてこれが信長の肖像である
と記されている。

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 この肖像画の作者は不明であるが、筆者は長興寺本の作者と同じく
狩野宗秀ではないかと推測している。

 信長の死んだ1582年において、狩野派の主要な絵師の年齢を
確認してみると、

 宗秀の父・松栄63才
 宗秀の兄・永徳39才
 宗秀31才
 永徳の弟子・山楽23才
 永徳の長男・光信21才

 この中で、信長の生前に肖像(寿像)を描いたと伝わっているのは
狩野光信ただひとりである。

 光信の肖像画では信長は裃姿であるが、容貌は痩せて面長であるため、
本画像の容貌とは異なっている。これを元に描いたと思われる永徳の肖像画
も同様で痩せて顎がほっそりしている。

 山楽が信長を描いた絵も記録も存在しないが、信長の弟・有楽斎を描いた
ものを見ると、これは寿像であるためかもしれないが、かなり像主に肉薄
している。有楽斎の心情に寄り添って見え、表現が柔らかく温かい。

 ために、冷たく突き放した感じで客観的に描かれている本作品とはあまり
共通点がない。松栄は年齢からいって現役ではないだろう。

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 長興寺本と神戸市立博物館本では、線の質が異なるため別人の作品と
見えてしまうのだが、共通点がいくつかある。

 第一が耳の表現で、信長の耳の形状がほぼ同じである。宗秀は、甥の光信
が描いた寿像を参考にしていると思われるが、この耳の形は全く異なって
いた。

 一周忌のために描かれた2点は制作時期が近いため、出来上がった一方の絵を
別人に貸し出したために、耳の形状が似たのだとは考えにくい。絵師の描き癖と
考える方が自然である。

 顎の付け根の形も、ほっそりした光信・永徳作品とは異なり、えらが張って
いる点が共通する。口髭の形も同様である。

 頭の大きさだけは異なるが、これは体位と絵師の視点間の距離によるもの
だろう。長興寺本では信長は胡坐(あぐら)坐りだが、神戸市立博物館本
では、踵を合わせた合蹠(がっせき)坐りをしている。

 胡坐の姿勢では上体が前かがみになるため、顎を引いている。したがって
頭部が大きく見えるが、合蹠の姿勢では、そっくり返り気味のため、顎が少し
上がっている。それで頭が小さく見えるわけである。

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 これらの2点は、信長死後の作品であり、像主を前に観察して描いたもの
ではないから、西洋の遠近法を持ち出す必要もないが、おそらくは狩野家に
伝来する「束帯像の種本」の図像がこのように描かれていたと想像できよう。

 博物館本は、頭部の形を変え、束帯像と合成したものであるせいか、
図解的な絵柄であり、顔に引かれた目鼻の線描も、どこか説明的に見える。

 これに対して長興寺本は、光信の下絵を元に、宗秀の天分が創意を加えた
ような伸び伸びとした自在さが感じられる。

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 私の推測どおり、神戸市立博物館本の作者が宗秀であるにせよ、別人にせよ
確実に異なるのは、眉間の皺の有無である。

 光信の寿像には皺は描かれていないので、博物館本の方が原本に忠実で
あるといえる。

 晴れ姿である束帯姿で、怒りを表す必要はなかったかもしれない。

 裃姿であっても同様に、光信作品を写す絵師にとって、怒りを表現する
必要はまったくなかった。

 であるならば、長興寺本の、あの特徴ある眉間の皺は、寄進者である与語
正勝が描かせたと云えるだろう。彼には皺を添えたい気持ちがあったはずで
ある。

 信長の家臣たちにはあの皺が鮮明に、記憶に残っていたのだ。

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 信長の、比較的穏やかな表情に、意図的に加えられた皺は、見る者に、
逆に強いインパクトを与えるようである。

 後年この肖像画は後世の織田信長のイメージを決定づけることになった。

 実は頬の輪郭をたどる線も、寿像の通りではなく、やや丸っこい。
ここには、画家独自の筆意といったものも感じられる。

 絵の出来を、寿像のリアリティや写実性と比較するわけにはいかないけれ
ども、追慕像としては、信長の人格を彷彿とさせる一流の仕上がりとなって
いる。


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〈参考文献〉

「戦国武将の肖像画」二木謙一・須藤茂樹著(新人物往来社)2011年

肖像画の視線」宮島新一著(吉川弘文館)2010年

狩野永徳展図録」京都国立博物館毎日新聞社)2007年

「日本肖像画史」成瀬不二雄著(中央公論美術出版)2004年

「日本美術史事典」(平凡社)1987年

「ブック・オブ・ブックス 日本の美術33 肖像画」宮 次男著(小学館
1975年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「日本美術全集18」宮島新一他(学研)1971年

「世界大百科事典」(平凡社

「日本百科大事典」(小学館

「桂林漫録(上巻9」桂川忠良著(国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政12年/1800年

ウィキペディアWikipedia)」


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