肖像画家 高野秀樹のブログ

絵画に関するエッセイをメインに、紀行文なども記載。

宣教師が描いた織田信長の肖像画(三宝寺蔵)


筆者のホームページ 肖像画油絵の注文制作
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          宣教師が描いた織田信長肖像画

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                          2019年09月28日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長武田信玄豊臣秀吉徳川家康ジャンヌ・ダルクモナリザ
……古今東西肖像画を一緒に読み解いていきましょう。


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――□
【1】 織田信長肖像画(三)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 信長と対面した宣教師たち
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告 
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長肖像画(三)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 今回は、戦国時代末期に、ヨーロッパ人宣教師が描いたという西洋画法によ
る信長の肖像画を取り上げる。写真のように描かれたこの絵は、2001年8月5日
テレビ番組『知ってるつもり』で電波に乗って以来、注目され続けている。

 原本は失われたため、私たちが見ることができるのは、明治時代に撮影され
た複製写真だけである。

 この肖像画については、明治初年に行われた「忠臣」の顕彰事業として制作
されたという説もあがっているが、筆者は偽物と切り捨てることができない。


 なお、本稿は2006年12月24日にまぐまぐから配信した原稿を加筆改定した
ものである。


★★★織田信長肖像画(三宝寺蔵)はこちら
 

◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名:織田信長の肖像
作者名:ジョバンニ・ニコラオ       (筆者の推定)
材 質:洋紙に木炭、若しくはコンテ、銀筆等(筆者の推定)
寸 法:不詳(原画は失われた)
制作年:1586年              (筆者の推定)
所在地:羽前・三宝寺(山形県天童市
注文者:織田信雄             (筆者の推定)

意 味:原本は、信長の死後まもない頃に描かれた追慕像。織田宗家の代々の
礼拝に用いられた。

 遠藤周作の対論集『たかが信長されど信長』(文芸春秋社1992)によれば

 「信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を、明治になってから複写
し、宮内庁、織田宗家、そしてこの三宝寺で分け持ったという。織田家では
この絵が信長にもっとも似ていると語り伝えられる。

 天童は、信長の二男信雄の直系が江戸後期転封された藩。代々の位牌をまつ
三宝寺の仰徳殿内に、この絵は大切に保存されている。」

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 次に、明治になって複写された写真の撮影者について。

 元天童市立旧東村山郡役所資料館長・湯村章男氏の『織田家菩提寺に残る
信長の肖像画について』によれば


   「この写真の裏には『大武写真館』と赤い印がおされている。この大武
  写真館とは、天童織田藩出身の写真師大武丈夫が開いた写真館である。
  
   彼は天童から仙台に出て、明治34年(1901)仙台市東一番町55番地で写
  真業を開業する。そして明治41年(1908)には大正天皇東北ご巡幸に供奉
  撮影の命を受け、東宮殿下松島行啓を撮影している。
  
   明治42年(1909)には東京へ出て日比谷に写真館を新築開業。その後、
  宮内庁御用を受け、外国の展覧会等に出品ししばしば最高賞を得ている。
  門人多数におよぶと『セピア色の肖像』(朝日ソノラマ刊2000)にある。
  
   彼の現存する記念写真としては、高橋是清孫文香淳皇后の写真など
  が有名だといわれている。大武丈夫は当時としてはかなりの写真家だった
  ことがわかった。明治の中頃複写されたと思われるその写真は、現在仰徳
  殿(三宝寺境内)に飾られている。」


 三宝寺が織田宗家の菩提寺となったのは天保元年(1830)のことであった。

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 信雄の依頼でニコラオが制作した、と筆者が推測する理由。


1.明治維新の33年前、天保6年(1835年)に天童藩がこの絵を所有していた
という記録があること。

(この絵は洋風画ではなく西洋画そのものであるから、幕末以前の日本人には
描き得ないし、鎖国下に西洋人画家も存在しない。それより前の時代であるな
らば、作者は江戸初期のキリシタン追放以前の南蛮人となる。)

2.織田信長の次男・信雄(1558-1630)は、11才のとき岐阜において神父
ルイス・フロイスに接しており、長じて安土のセミナリオに出入りして西洋
文化に親しみ、またオルガンチーノ校長や教師たちとも面識があったこと。


3.イタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が、天正11年
(1583年)から慶長19年(1614年)までの31年に渡り、セミナリオで西洋
画法を伝授するために派遣されていた正規の画家であること。

4.本能寺の変のあと尾張と伊勢の領主となった信雄が、まだ権力も財力も
保持していた時代(1585-87年)に、セミナリオが安土/高槻から大坂に
移って来ており、教師二コラオが在籍していたらしいこと。

(二コラオは、アジア巡察使ヴァリニャーノの肝入りで派遣された有能な画家
・修道士であり、1587年のキリシタン追放令でセミナリオの九州移転が余儀な
くされるまでは影響力の大きい中央で教えていたと考えられる。)


5.このようなリアルな肖像画を描くには信長とよく似たモデルが不可欠だが
信雄の家臣には弟・長益(1547-1622)がおり、大坂には同腹の弟の信包
(1543-1614)がいたこと。


◆【3】像主・織田信長(1534-1582)と対面した宣教師たち━━━━━━◆

 室町から桃山にかけて渡来した宣教師は100名以上という。
その中で、信長と会見した外国人宣教師の名は4名まで分かっている。

 ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラル、ソルド・オルガンチーノ、
アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。

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ルイス・フロイス Luis Frois(1532-97)

 リスボン生まれのポルトガル人。16才でイエズス会に入った後、インドのゴ
アでフランシスコ・ザビエル及び日本人ヤジローに出会った。

 1563年 肥前に到着。2年後京都に入り、13代将軍足利義輝に会う。
 1569年 足利義昭と共に上洛した織田信長より京都での布教の許可を得る。

 4月8日二条城の建設現場で初めて会見した信長は、フロイスを2時間質問
攻めにした。

 以下は、2ヶ月後フロイスが書いたローマ宛の書簡(6月1日付け)。
文字による信長の肖像である。


   「この尾張の王は、年齢37才になるべく、長身痩躯、髯少なし、声はは
  なはだ高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、
  傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術巧みにしてほとんど規律に服
  せず、部下の進言に従うこと稀なり。

   彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて
  薄く日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するが如く肩の上よりこれ
  に語る。諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。

   良き理解力と明晰なる判断力とを有し、神仏その他偶像を軽視し、異教
  一切の占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不
  滅なることなく、死後何事も存せざることを明らかに説けり。

   その事業は完全にして巧妙を極め、人と語るに当り紆余曲折を憎めり」


 1580年 巡察師ヴァリニャーノの来日の際通訳として同行し信長に拝謁。

 1583年 有名な『日本史』(1549-93までの日本教会史)の執筆に着手。

 ルイス・フロイス織田信長が京都で初めて出会ってから13年後の1582年
5月12日。信長は自らを神と称して誕生日の祭祀を挙行する。自らを本尊と
して祀った安土城総見寺には群集が押寄せた。

 しかし、ひと月もたたずに本能寺の変が起こり、信長は自害。このときの
ことをフロイスは次のように書き残している。


   「しかるに信長は、創造主デウスにのみ捧げられるべき、祭祀と礼拝を
  横領するという狂気じみた言行と暴挙に及んだ。

    このためデウスは、群集の参拝を見ながら信長が味わっていた歓喜
  19日以上継続することを許さなかった。」


 1590年 帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、同
行して聚楽第で秀吉と会見。

 1597年 2月 秀吉によるキリシタン26人公開処刑(長崎26聖人殉教)を記録
したのち同地にて病死。享年65。

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フランシスコ・カブラル Francisco Cabral (1533頃-1609)

 アゾーレス諸島のサン・ミゲル島生れのポルトガル人。
 1550年 インドに渡り、軍人として働いたのちイエズス会の司祭となる。

 1570年 日本布教長として来日。大村・有馬などで多くの信者を改心させた
が、日本人に対しては批判的だった。

 信長には二度会った。1571年、カブラルが、フロイスや日本人ロレンソ了斎
(1526-92)を引き連れ、岐阜城を訪れたときには、信長は極めて丁重に扱って
いる。

 1579年 来日した巡察使ヴァリニャーノと布教方法を巡って対立。
カブラルは、宣教師に日本語を習得させようとせず、日本人に対してもラテン
語を学ばせないで司祭になる道を閉ざしていた。

 1581年 日本布教長を解任される。
 1583年 日本を去り、マカオに移動。
 1592年 ゴアでインド管区長を務め、ゴアで死去。


 以下は、カブラルの言葉。


   「日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことが
  ない。やむを得ない場合を除いては、共同生活に耐えられず、すぐ人の
  上に立とうとする。そのため、分派・異端が発生する。

   心中をさらけ出したり、他人に悟られたりしないことを、思慮深く名誉
  なことと考えている。」


 筆者はカブラルの慧眼に感服する。これは最も早い時期の西洋人による、
本質を突いた日本人論であろう。


 カブラルの見方は宗教者のものではない。彼は冷徹な政治家・統治者の目、
そして経済人(経済的合理性のみに基づいて行動する人間)の目で見ている
のである。

 それは、図らずも後年の徳川家康の見識と一致している。であるがゆえに、
この日本人の特性を一切禁ずる方向性をもって、江戸時代を治め抜いた。明治
以後の為政者にもこの家康の方法論は、有益であり続ける。


 また後年カブラルがスペイン国王に送った書簡の中では、中国の征服には
日本人傭兵が役立つと、実に元軍人らしい観察眼を覗かせている。

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ソルド・オルガンチーノ Soldo Organtino(1533-1609)

 北イタリアのカスト生まれ。22才でイエズス会に入る。
 1570年 来日。岡山、高槻、摂津、河内に布教。日本人に人気があった。

 1576年 信長の許可を得て、京都に南蛮寺を建立。信長が何の予告もなく
安土のセミナリオを訪れたり、伊東マンショの演奏するチェンバロに聞き
入ったというエピソードも伝わっている。

 翌年息子の信雄がオルガンチーノを訪ね、親しく宣教師たちと語り合った。
信雄は後日「時が至ればキリスト教を詳しく学びたい」と記した礼状を送って
いる。

 信雄が訪れた翌日には多くの部下を引き連れた信忠が訪れ、熱心に聴聞し、
領地岐阜への布教するように伝えている。


 1578年 攝津の荒木村重が、信長に対して謀叛を起こし、高槻のキリシタン
大名・高山右近がこれに従うという大事件が起こった。このときオルガンチー
ノは信長に呼び出され、右近の説得に奔走させられている。

 開城せねば高槻のキリシタンは皆殺しにするという脅迫であり、もしこれに
失敗すれば、信長がキリシタン全部に対する迫害に転ずる怖れがあった。

 結局、オルガンチーノの説得は成功し、褒美として安土のセミナリオも建設
されることになる。これ以後の信長の信任は厚かった。


 1580年 安土に全寮制のセミナリオ(神学校)を建てることを許され、オル
ガンチーノは校長に就任した。ここでは25人の生徒(武士の子弟)と、神父・
修道士を含めて50人の職員が生活を共にしていた。

 セミナリオでは日本語、習字、ラテン語ポルトガル語、作文、数学、音楽
(合唱・器楽)、キリスト教の教義など教えられた。


 あるとき信長はオルガンチーノに「民衆に対して天国で救われると説いてい
るが、それは民衆が罪を犯さないための方便だろう」と尋ねたことがある。

 信長はキリシタンに対して寛容ではあったが、信仰心はなく、宗教を政治の
ための道具と考えていた。


 1582年 信長の死と安土城の焼失。
 1583年 オルガンチーノは安土のセミナリオを高槻に移転。
 1585年 高山右近の明石転封により、セミナリオを大坂に移転。
 1587年 秀吉により最初のキリシタン追放令が出されると、小豆島に逃れ、
 最終的には長崎半島南部の有馬のセミナリオに合流した。

 1591年 天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。
 1609年 長崎で病床につき76才で没した。

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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ Alessandro Valignano(1539-1606)

 イタリア・ナポリのキエーティで貴族の家に生まれる。
パドヴァ大学で法学を学んだ後、教皇パウルス4世の招きでローマで働く。

 1566年 イエズス会に入会。
 1570年 司祭となる。
 1573年 広大な東洋地域を回る巡察師となり、生涯に三度日本を訪れた。

 1579年 最初の来日では、増加するキリシタンに対して司祭が著しく不足
している現実を踏まえ、教育機関を充実させる改革を企図して本国に要請。

 日本人司祭の育成及び、教義の理解を視覚で補うための聖画像を描ける画工
の確保が急務だった。こうして設立されたのが、

  肥前・有馬と安土における中等教育のためのセミナリオ(神学校)
  豊後・臼杵イエズス会員養成のためのノヴィシアード(修練院)
  豊後・大分の府内における高等教育のためのコレジオ(大学)

である。


 1581年には初めて織田信長と謁見。信長はヴァリニャーノの威風堂々とした
体格や人間性、政治的手腕に強い印象を受けたらしい。安土に滞在した4ヵ月
間を非常に喜び、厚遇している。

 大柄な黒人の召使いを見て、その肌を洗わせたというエピソードはこのとき
のもので、それが本物の色だと知った信長は、彼をヴァリニャーノからもらい
受け、ヤスケと名付けた。

 ヤスケはこれ以後、奴隷ではなく士分の扱いを受けるようになり、信長への
恩義を忘れなかった。


 ヴァリニャーノは日本布教費用の増額を本国で認めてもらうために、天正
欧少年使節の企画を発案した。

 天正遣欧使節と共に安土を去るときには信長より、正親町天皇も欲しがった
という秘蔵の巨大な「安土城の図」(狩野永徳作)を贈られている。

 1582年 ヴァリニャーノは天正遣欧使節一行と共に日本を離れ、インドの
ゴアまで付き添った。この頃が布教の全盛期だったといわれている。

 1583年当時、イエズス会員は85名おり、司祭が32名、日本人修道士が20名、
雑役をする人々は500名。教会の数が200あり、信徒は15万人に達していた。


 1590年 2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。
 1591年 聚楽第豊臣秀吉に謁見。日本に活版印刷機をもたらした。

 1598年 最後の来日では日本先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会
などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。

 1603年 最後の巡察を終えて日本を去る。
 1606年 マカオで死去。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 1.明治時代における忠臣の顕彰事業


 まずジョバンニ・二コラオについて語る前に、「この絵が描かれたのは明治
時代ではないのか?」という疑問に答えねばならない。

 それは、この肖像画が「明治期に行われた“忠臣”の顕彰事業として制作
された」という説である。

「忠臣の顕彰事業」とは、天皇に特筆すべき忠義を尽くし、歴史の中に消えて
ゆく偉人たちの名誉回復のために行われた事業のことである。

 長い武家政治のあと、天皇中心の国家を実現した明治政府が自らを権威付け
るために必要な示威運動だったともいえよう。

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 なかでも最も有名なのが、明治の元勲の筆頭に数え上げられながら西南戦争
を引き起こして敗死した西郷隆盛の肖像がある。

 これは政府印刷局のお雇い画家だったイタリア人、エドアルド・キヨソーネ
明治16年(1883)に制作したもので、15年後の明治31年(1898)には、彫刻家
高村光雲により上野公園の銅像が造られた。

 戊辰戦争の英雄で明治陸軍の創設者・大村益次郎肖像画(遺像)もキヨソ
ーネによって描かれ、靖国神社には明治26年(1893)に銅像が建てられる。

 明治政府らしいといえば、南北朝時代後醍醐天皇の忠臣・楠木正成の顕彰
事業があげられよう。明治23年(1890)に四条畷(なわて)神社が建立され、
明治37年(1904)には楠木正成公ブロンズ像が鋳造されている。

 また、戊辰戦争において新政府軍についた天童織田藩は多くの犠牲を払った
ため、その功労が認められて、藩祖・織田信長の顕彰事業が企画された。

 明治2年(1869)には明治天皇によって京都船岡山建勲神社が建立され、
さらに天童藩の知事であった織田信敏(信雄の直系の子孫)によって明治3年
(1870)の天童市真鶴山に建勲神社が建てられたのである。

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 つまり、三宝寺に伝わる本作品は、「忠臣の顕彰事業」として明治時代に
なってから制作されたのではないのかという説なのだが、実は、この絵には
維新の33年前の天保6年(1835)に存在していたという記録が残っている。

 再度、湯村章男氏の『織田家菩提寺に残る信長の肖像画について』を引用
する。


  「天童藩代官佐藤次右衞門が著した勤仕録の天保6未年(1835年)の項
 に次のような一文を見つけることができた。
 
 
   『天保六未年正月朔日 一例之通出仕之處、御太祖様尊像御書院奉掛、
  御中小姓以上席々拝礼相済候後、於御用部屋被相詰、同所詰御酒頂戴被仰
  付、…』(天童市史編集資料第14号)


  織田家では藩主への年頭の挨拶の折り、毎年御太祖様(信長)の肖像画
 に拝礼し、その後家臣たちは御酒をいただくことになっている。

  これは、『例之通』とあることから初代藩主信雄以来営々と絶えること
 なく慣習として受け継がれてきたことが想像できる。

  毎年拝礼を重ねてきた肖像画が、複写され三宝寺に残ったらしい。」


 肖像画本体が失われている以上、断言することはできないけれども、
「明治の顕彰事業説」は否定してよさそうである。

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 そして明治以前の制作となれば、桃山時代が俄然輝きを帯びてくる。

 天保6年ではこのような絵を描ける人間が日本に存在しない。なぜなら
本作品は西洋画そのものであって、洋風画ではないからである。

 江戸中期から後期にかけて平賀源内、小野田直武、亜欧堂田善、司馬江漢
らが洋風画を描いてはいるが、本作品の技術は彼らの及ぶものではない。

 鎖国下の日本に西洋人画家が存在するはずもなかった。国内で唯一異人の
商館があった長崎出島における西洋人画家の可能性は寡聞にして知らない。

 また、織田信長と対面した宣教師たちの誰かが描いたということはあり
得ない。4人とも技術者ではなかった。

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 2.ジョヴァンニ・ニコラオ登場


 肖像画の制作時期を桃山時代と考えると、うってつけの人物がいる。

 桃山時代のヨーロッパといえば、ルネサンスからバロックに移行するはざま
の時代であり、マニエリズム期にあたる。

 信長と同時代を生きたイタリアの芸術家にはミケランジェロ(1475-1564)
ティツィアーノ(1488-1576)、ポントルモ(1494-1557)、ブロンズィーノ
(1503-72)がいた。

 1582年には、バッサーノ(1515-92)、ティントレット(1518-94)、ヴェロ
ネーゼ(1528-88)、バロッチ(1528-1612)、アローリ(1535-1607)、カラ
ッチ(1560-1609)、カラヴァッジオ(1571-1610)が生きている。

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 天正11年(1583)イタリアから、彼らの同業者が来日した。

 画家の名は、ジョヴァンニ・ニコラオ Giovanni Nicolao(1560-1626)
通称Cola。


 ニコラオはスペイン領・ナポリ西方の町ノーラに生まれ、幼い頃からナポリ
の絵画工房で修行を積んだらしい。ナポリはオルガン製作でも有名な都市で
あった。

 1577年、17才のときイエズス会に入会。1581年にはセミナリオの絵画教師
として日本に派遣されることが決まった。

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 当時、極東の日本でキリシタンが爆発的に増加すると共に、聖画像の需要
が増大。必要総数5万点。日本人画工を養成することが急務となったため、
巡察使ヴァリニャーノが本国に要請した本格的な画家のひとりである。

 彼は、油絵・水彩・銅版画、祭壇画・壁画に優れていただけでなく、時計・
楽器の製作や数学もできた万能芸術家だった。ニコラオの日本滞在は約31年
にも及び、その大半を長崎で活動したという。


 1582年初め、天正少年使節に付き添って日本を出発したヴァリニャーノは、
インドのゴアに留まったので、二コラオらと接触したはずである。

 ニコラオはマラッカを経て、マカオに至りここで救世主像を制作したりして
1年を過ごす。長崎に到着したのは1583年7月20日のことであった。

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 来日当初のニコラオは体調が優れなかったらしい。長崎は日本で最もキリシ
タンの多い地域であり施設も整っていたから、しばらく長崎で静養しながら
神学を学んでいる。

 当時、日本の布教管轄区域は、下教区(肥前長崎)、上教区(豊後大分)、
都教区(畿内)、を中心とした三つの教区に分けられており、下教区に11万
5千人、上教区に1万人、都教区には2万5千人の信者がいた。

 キリシタン最大の擁護者だった織田信長は既に亡く、明智光秀柴田勝家
織田信孝を下した羽柴秀吉の天下が目前となった時期である。

 安土にあったセミナリオは1583年よりキリシタン大名高山右近の治める
南蛮文化の中心地・高槻に移っていた。

 体が癒えたニコラオは、画家として長崎周辺の教会のための聖画像の制作
に腕を振るい始める。

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 1584年3月、徳川家康と結んだ織田信雄と、羽柴秀吉の間で小牧・長久手
戦いが始まったが、勝敗が決することなく10月には和睦が成る。

 続く1585年3月、秀吉が根来・雑賀衆紀州討伐、6月には四国征討を行う。
配下となった織田信雄キリシタン大名小西行長高山右近らも奔走した。

 同じ年秀吉の有力武将だった右近は、軍功により高槻四万石から明石六万
石に転封となったため、保護者を失ったオルガンチーノのセミナリオは高槻
から秀吉のお膝元である大坂に移された。

 翌1586年3月、九州より、イエズス会日本準管区長のコエリョ一行が秀吉を
表敬訪問。ニコラオも同行。この年は平穏に過ぎる。12月関白・太政大臣
なった秀吉は豊臣姓を拝命。

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 1587年が明けると九州征伐が始まり、5月に薩摩の島津義久が降伏。6月に
なると秀吉は突如として伴天連(バテレン)追放令を発した。

 九州各地で目にした神社仏閣の破壊と、長崎が借金の担保としてポルトガル
の領土と化していたことは、新しい天下人にとって目に余るものだった。7月
になって秀吉は大坂に凱旋。


 大坂にあったセミナリオや各地の教会の宣教師らは移転を余儀なくされた。

 慌ただしく小豆島、そして九州西方の肥前平戸島、生月(いきつき)島、
長崎へと転々とし、遂には1580年から活動していた有馬(長崎県島原半島
セミナリオと合流することになった。

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 このときの大阪→小豆島→平戸→生月→長崎→有馬というセミナリオの
流転に、ニコラオら修道士・画家も同道していたと、筆者は考える。

 また織田信雄は、天正18年(1590年)小田原征伐のあと秀吉の勘気を被り
改易されて流罪の憂き目にあっているから、信雄の経済的余裕があった時代
はそれ以前に限られるよう。


 宣教師やキリシタン文化に理解のあった織田信雄の生涯が、もし、卓越
した画家ジョバンニ・ニコラオと交差する一瞬があったとするならば、

 そしてセミナリオの責任者のオルガンチーノを通してニコラオに、亡き父
信長の肖像画(追慕像)の制作を依頼することがあったとするなら、

 大坂にセミナリオが存在した1586年という時期であったろう。

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 それは、日本滞在のほとんどを九州に過ごしたニコラオが、日本準管区長
コエリョ随行して、唯一畿内に滞在した時期でもある。


 いくら優れた画工であったとしても、コエリョが秀吉に謁見するのに一介
の修道士を引率する必要はないから、

 ニコラオらを上京させた目的は、大坂のセミナリオにおける日本人生徒の
画技の指導だったはずであり、コエリョ一行が九州に去ったあとも、大阪に
留まったと思われる。


 信長の肖像画の制作に当たって、信長の身代わりのモデルを務めたと思わ
れる同腹の弟・織田信包は秀吉に仕えて大坂にあったし、腹違いの弟・織田
長益も、尾張清須城を拠点とし伊勢も治める信雄の配下にあった。

 九州と並んで、大阪、兵庫、福井などには当時の外国人画家の手になる
聖画像が数多く伝わっていることもニコラオらの活動を想起させる。

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 3.報告書に記されたニコラオ


 以下に「イエズス会日本年報」「ルイス・フロイス書簡」やJ.P.Schutte
神父の論文等に取材した隈元謙次郎著「近時発見の帝王図に就て」と高瀬
弘一郎著「キリシタン文化の諸相」によりニコラオの消息を追ってみる。


 1583年 来日時ニコラオ23才。神学を学ぶ。体調勝れず。
 1584年 最初の作品を有馬と長崎で1点ずつ制作。
 1585年 有馬の新しい聖堂のために「キリスト像」を描く。
 1586年 中国の教会のために「キリスト像」の大作を完成し送る。
     銅板に油彩で「聖ステファノ像」を制作。

     この年の3月、京阪への旅行に、イエズス会初代日本準管区長
     コエリョが4人の司祭と3人の修道士を随え出発。修道士の中に
     豊後のコレジオと僧院に絵を作ったニコラオという画工がいた
     が、病んだ同僚に付き添い下関に留まる。

     堺に上陸後、コエリョは3月16日秀吉と謁見。正式な布教許可を
     得た。その後京都に至る。帰途一行は豊後に立ち寄り、
     10月 有馬に帰還。

     (「ルイス・フロイス天正14年度耶蘇会年報」太田正雄訳)

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 1587年 6月秀吉による伴天連(バテレン)追放令。

     大坂から移ってきたセミナリオが小豆島と平戸を経由して10月に
     生月島壱部へ、11月に長崎へ移り、12月に有馬(島原半島南部)
     のセミナリオと合流。学生総数70名。

 1588年 1月 有馬から北へ5キロ山あいの八良尾(北有馬町丙)に移る。
 1589年 4月 八良尾から16キロ南の加津佐に移転。

 1590年 ヴァリニャーノと共に天正少年使節が帰国。リスボンから運んだ
     グーテンベルグ活版印刷機は加津佐のコレジオに設置された。
 1591年 3月 天正少年使節とヴァリニャーノが秀吉に謁見。
     長崎での活動の自由を取り付ける。5月 セミナリオの八良尾移転。

 1592年 11月 セミナリオの美術部門が海を隔てた天草下島の志岐に移り、
     画学舎を設置。ニコラオが専任となり日本人2名が助手を務めた。

     (1587年から91年まで、ニコラオに関する記録は欠落しているが
     これは追放令によるセミナリオの流転が原因と思われる。)

 1594年 画学舎には油彩8名、水彩(テンペラ画)8名、銅版画5名の生徒が
     在籍し、準管区長の報告ではローマ伝来の聖画像にも劣らぬ作品の
     出来栄えを伝えている。

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 1595年 6月 八良尾セミナリオ放火により焼失。有馬から東へ10キロの有家
     へ移る。生徒数は200名を数え、志岐の画学舎も移ってきていた。

 1596年 10月 スペイン船サン・フェリペ号事件。スペインの世界帝国成立
     ついて奉行に問われた水先案内人が「信者が十分増えたら軍隊を
     派遣し征服する」と口を滑らせる。12月 伴天連禁止令。
 1597年 1月 長崎26聖人の殉教。10月 有家のセミナリオ閉鎖。

 1598年 8月 秀吉の死。以後1612年まで長崎ではキリシタンの禁制が
     弱まった。長崎にセミナリオ創建。

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 1599年 3月 天草下島の河内浦に移転。8月 志岐に移転。
 1600年 長崎に移転。
 1601年 10月 長崎の火災のため、有馬に移転。
     ニコラオと14人の生徒はオルガンと時計を作る。
     西洋に劣らぬ版画を作り各地に供給との報告。

 1602年 長崎に移転。画学舎と印刷所。ニコラオの有能なる指導の報告。
 1603年 ニコラオの有能なる指導の報告2件。ニコラオ司祭補となる。
     告白を聞くに足る日本語知識を有すとの報告。
 1605年 ニコラオ、画学舎の校長に就任。
 1607年 上司がニコラオの性格について報告。

 1611年 有馬のセミナリオがこの年まで存続という文献あり。
 1612年 8月 江戸幕府による初めての伴天連禁止令。

 1613年 上司がニコラオの性格について報告。
 1614年 上司がニコラオの性格について報告。「智識普通以下。才能普通。
     判断・思慮・経験・学識総て普通以下。性多血質。告白を聴く事
     の才能、人に会う能力も普通以下。」

     1月 高山右近キリシタン148名をマカオに追放。
     生徒28名とニコラオら教師6名も含まれ、マカオセミナリオが
     再開されたが、資金難もあって振るわなかった。

 1620年 この年までニコラオは活動。
 1626年 マカオにて死去。66才。

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 4.ジョヴァンニ・ニコラオの教え子たち


 1614年の報告を見る限りにおいて、司祭補であったジョヴァンニ・ニコラオ
に対する上司の信頼は厚くない。ただし、その評価基準は優れたイエズス会
指導者足り得ることであったから、

 キリスト教義に疎かろうが、司祭としての見識・品格に欠けようが、熱血質
で短気であろうが、画家としての資質には全く関係のないことであった。

 ニコラオ自身も、図画教師としてはるばるイタリアから東アジアに派遣され
長年実績を上げてきた自負もあり、上司の批判など何処吹く風であったろう。


 彼が制作した作品は現存しているはずであるが、ニコラオ作と断言できる
ものは見つかっていない。

 17世紀のオランダでは、既に作品に署名するという行為が普及していたが、
イタリアでは比較的少数の作品にしか署名は行われていない。ましてや神に
捧げる聖画像に画僧の名を記すなど許されないことであった。

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 一方教師としてのジョヴァンニ・ニコラオは長崎、有馬、天草のセミナリオ
で日本人洋画家30名以上を養成し、日本美術史における『イエズス会画派』を
形作る。

 イエズス会の資料によると、ニコラオの門下には、ヤコブ丹羽、レオナルド
木村、マンショ・タイチク、ルイス・シオヅカ、タドウ、ペドロ・ジョアン、
オタオ・マンショ、マンショ・ジョアンが育っており、

 日本側の資料によれば、山田右衛門作、生島三郎佐、弟・生島藤七、三郎佐
の門人・野沢久右、さらに信方の存在が確認できる。

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 彼らの中では、

  日本人と中国人の混血で、ヴァリニャーノの意向で早期にマカオに渡り、
  宣教師マテオ・リッチの下で活躍したヤコブ丹羽

  肥後・宇土生まれの卓越した画家で、肥後の全教会を絵で飾った
  マンショ・タイチク

  1637年、3万7千人の犠牲者を出した島原の乱において、籠城してただ一人
  生き残り、江戸勤めのあと故郷・口之津に戻り83才の天寿を全うした山田
  右衛門作(えもさく)。

  禁教後も、大名らの求めるままに西洋風俗画を描き続け、唯一署名を
  残しその作品が確認できる信方

 らが興味深い。

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 ニコラオの生徒たち、イエズス会画派の作品には共通した刻印があった。

 それらは西洋人の作品とは明らかに異なっていて、日本人の手になるものと
一目で判別できるような、“和臭”ともいうべき、稚拙で生硬な表現に留まっ
ていることである。

 遠近法、陰影法等あらゆる画法が銅版画などの手本から学習されたものであ
って、人物だろうと風景だろうと、実物を一切参考にしていない。さらには、
人物像の中に解剖学的知識をまったく見出すことができないのだ。

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 実物を前にして、物の見方を学ばせることは不要である。これが、セミナリ
オ・画学舎教師であるニコラオの、基本的教育姿勢であった。

 ニコラオ自身は、イタリア・ルネサンス後期の画家として工房での修行を積
んでいたにも関わらず、こうした姿勢を生涯貫いたのは、

 イエズス会が異国での布教のために、必要な条件を満たす聖画像の描き方を
促成栽培的に日本人画工に植え付けようとしたためであり、芸術家を育成する
必要が皆無だったためである。

 この点においては、ニコラオは教義に完全に忠実であり、イエズス会の図画
教師としては、完璧に有能な人材であった。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 いかにも王者の風格のある肖像画である。テレビで初めて見かけて以来、
漠然と寿像であろうと考えていたのだが、遠藤周作の著作によって死後の制作
と知った。

 構図は、模範的かつ月並みな、手堅い構図である。

 モデルには向かって左上部からの斜光(自然光)が当てられている。右半分
と口唇やあごの下が陰になり、口髭の下には鼻先の影が、あご下には下からの
反射光が描かれている。

 胸から肩への奥行感や小袖の質感など、手慣れた明暗・立体表現、人物描写
が認められる。背景の空気感も的確である。桃山時代にあって、ニコラオの教
え子には到達し得なかった技量の冴えがここにはある。

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 ニコラオは、ゴアでヴァリニャーノから日本の支配者・織田信長について、
人物像や人柄について情報を得ていたであろうが、モデルへの心情的な共感は
まったく見えてこない。

 目の前に着座していたと思われる身代わりのモデルに対しても、何の感慨も
持っていないようである。

 これは卓越した肖像画であると同時に、客観的であっさりとした人物表現で
あり外国人であるがゆえの、公平さと平明さ、かつ一抹の無味乾燥さも包含し
ている。

 注文者・織田信雄から求められたプロとしての手腕を、確実に発揮しようと
する外国人画家の気概のみが感じられる。

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 さて、この肖像画制作の実際について検討するならば、


 セミナリオの責任者であるオルガンチーノと、画家ニコラオ、依頼者の信雄
の間で、制作日、場所、材料、モデル、着衣について打ち合わせ・調整のため
の時間は要したであろうけれども、

 制作そのものは、日を跨ぐことなく数時間で完成まで至ったことだろう。


 この絵は、本絵のための下絵ではないし、似顔絵のような画家の手すさびと
して描かれたものではなく、全身全霊で描かれた肖像画であって、

 このようなリアルな遺像を描くときには、影武者たる身代わりのモデルが
必要になる。そうしないと陰影の描写に説得力がなくなってしまうからだ。

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 織田信長(1534-82)の兄弟の仲では、父・織田信秀の四男・三十郎信包
(1543-1614)と、十一男・源五長益(1547-1621)が存命であった。

 信包の母親は土田御前であって、信長と同腹の弟になる。千利休門下の茶人
・有楽斎として有名な長益については、母親で誰であるかは分かっていない。
1586年の時点では信包が43才、長益は39才である。

 画像ページに掲載したが、二人が法体姿となった老年の肖像画が残っている
のでこれと比較すると、

 本作では一重まぶたに描かれている点と耳たぶの形、及びえらが張っていな
いことが信包と共通しており、

 鼻筋とまなざしは長益に似ているようである。長益は耳たぶが仏像のように
ふくよかで大きく、またえらが張ってがっしりした容貌だった。

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 この絵の中の信長は、堂々たるスターリン髯を生やしており、ルイス・フロ
イスの報告にある「髯は少ない」という記述とは矛盾する。

 ただ、筆者の知っている限りにおいても髯のない肖像画は 2種類存在するの
で、信長はたまに髯を剃ることがあったとみる。

 髯のない信長を思い描いてみると、役者のように美形である。

 うりざね顔と切れ長の大きな目、大きめの鷲鼻などは、本能寺の変の数か月
後に病死した同腹の妹・お犬の没後まもなく描かれた肖像画と共通している。


 しかし髯は、独裁者にこそふさわしい。晩年は神であることを演出するため
にも、剃るのを我慢していたことだろう。

 信長の側室・お鍋の方と関係の深い岐阜県崇福寺の肖像を探せば、今回の
三宝寺本を彷彿とさせる、豊かな髯をたくわえた信長に会える。

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 信雄が、武人である叔父の信包をモデルとして座らせ、そばに家臣で猛将
だった長益を控えさせ、ニコラオに制作させたとしたら、本作の仕上がりのよ
うになるかもしれない。

 信雄、信包、長益が、ニコラオの描きかけのデッサンを見ながら、あれこれ
注文を付けている図は楽しい想像である。


 画像ページには、三宝寺本を反転させた画像と早稲田本を並べてみた。

 日本画と西洋画の違いはあるが実によく似通っているように見える。もしか
したら信雄は、この早稲田本、あるいはこれを元に描かれた狩野永徳作品を
借り出して、ニコラオのために持参したのかもしれない。


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〈参考文献〉

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画 」坂本満著(小学館)1970年

「ブックオブブックス 日本の美術34 南蛮美術」坂本満・吉村元雄著
小学館)1974年

「日本美術全集10 黄金とわび」山本英男著(小学館)2013年

「たかが信長されど信長」遠藤周作著(文芸春秋)1992年

「狐狸庵 歴史の夜話」遠藤周作著(牧羊社)1992年

織田信長高山右近」津山千恵著(三一書房)1992年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

キリシタン時代の知識人」遠藤周作三浦朱門著(日経新書)1967年

キリシタン時代の文化と諸相」高瀬弘一郎著(八木書店)2001年

『美術研究第119号』「近時発見の帝王図に就て」隈元謙次郎著 1941年11月

織田家菩提寺に残る信長の肖像画について」
天童市立旧東村山郡役所資料館長 湯村章男著

キリシタンの子どもたちの音楽教育」金谷めぐみ著 2015年
西南女学院大学紀要Vol.19) 

セミナリヨコレジヨ天正遣欧少年使節
セミナリヨコレジヨの設置期間と移転」
南島原市教育委員会ホームページ)

『藝海余波(第7集)』松平斉民収集
早稲田大学図書館WEB展覧会】No.32館蔵「肖像画」展
-忘れがたき風貌- Part.2


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織田信長の生前に描かれた肖像画(早稲田大学図書館蔵)


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         織田信長の生前に描かれた肖像画

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【1】 織田信長肖像画(二)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について 
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長肖像画(二)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 織田信長の御前において、現身(うつしみ)の姿を写生したと記録されるの
は、筆者の知る限り狩野右京光信ただひとりである。光信は、安土城障壁画
作事の総責任者であった絵師、狩野永徳洲信(くにのぶ)の嫡男であった。

 今回紹介する肖像画は、早稲田大学図書館に「織田信長肖像」(江戸時代の
写本)として伝わるものであるが、筆者はこれこそが狩野光信の描いた信長の
寿像そのものではないかと考えている。

★★★織田信長肖像画(『芸海余波』早稲田大学図書館)はこちら


◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名:信長公像
作者名:狩野光信(直筆であると推定)
材 質:紙本墨画淡彩、綴本(とじほん)に貼込
寸 法:54.0×40.8cm
制作年:1581年(筆者の推定)
所在地:早稲田大学図書館(洋学文庫)
注文者:不詳(光信が信長に申し出たものか)

意 味:『芸海余波』という貼込帖(はりこみちょう)の中に貼られた一枚。

『芸海余波』とは美作国津山藩主・松平斉民(1814-1891)が自ら収集
した中国伝来品の商標や西洋版画の模写、高名な蘭学者の筆跡など資料を
貼り込んだ冊子であった。

織田信長安土城は、1576年から79年の間に築城されたが、その天守閣を飾る
障壁画は、狩野永徳一門によって足掛け5年を費やして完成された。これに
対する織田信長の評価は高く、永徳に「天下一」の称号を与えた。

1581年、永徳と光信は信長に謁見して、褒美を賜っている。このような機会に
信長と永徳や大工の棟梁らが談笑する傍らで、光信が申し出て持参の和紙に筆
を走らせ写生することがあったかもしれない。信長の上機嫌の表情がそんな
雰囲気をかもし出している。


◆【3】像主・織田信長(1534-1582)と安土城について━━━━━━━━◆

 信長が初めて安土城の構想を持ったのは不惑を越えた頃だろうか。

 天正元年(1573年)足利義昭を追い 室町幕府を滅亡させた信長は、天正3年
武田軍を三河長篠の戦いで撃破し、越前の一向一揆を鎮圧したが、まだ北に上
杉謙信、西に石山本願寺、中国に毛利が控えているという状況下にあった。

 同年11月、朝廷から大納言・右大将の任官を受けた信長は、嫡男信忠に家督
岐阜城を譲り渡している。

 明けて 天正4年(1576年)正月、琵琶湖の東岸安土山の上に壮大な城の建設
が始まった。

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 城普請役は丹羽長秀。 2月になるとただちに本丸の築城がなり、早速信長は
移り住む。4月、石垣そして天守閣の建立が着工する。

 石垣普請には石工・坂本穴太、天主普請には熱田大工岡部又右衛門、屋根瓦
作りは、唐人・一観をあたらせた。

 諸国から集められた数千の侍・大工・職人たちが働く様は、昼夜、山も谷も
動くがごとくであったという。

 11月には天守閣の輪郭が完成。天正7年(1579年)5月に城は竣工した。高さ
46メートル、安土山と併せれば 湖面から158メートルになる。信長は天主を居
館とした。

 4世紀のちの 1971年、東京新宿に最初に建てられた高層ビル・京王プラザホ
テルが 165メートルだったというから、当時この高さを一人で独占していた信
長が、天上の神を自称したというのも尤もなことに思える。

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 このような巨大な天守閣はかつてなかったものである。

 その構造は、外部五層・内部七重で、底面が不等辺八角形。

 地下一階から三階までが吹抜けで、中空にせり出した吊舞台を設け、その下
部には多宝塔が鎮座する。六階に八角形の朱塗りの望楼を設け、最上階は総金
箔貼りだった。


 内部の装飾絵画については、太田牛一が『信長公記』に書き残している。

一重目 土蔵のため絵は無し。

二重目 床は漆黒。絵の周囲は金で全て縁取り。

    西十二畳敷『墨絵に梅』、書院『遠寺晩鐘図』、
    次四畳敷棚『鳩図』、十二畳敷『鵞鳥図』、次八畳敷奥四畳敷『雉の
    子を愛する図』、南十二畳『唐の儒者達』

三重目 十二畳敷『花鳥図』、四畳敷『花鳥図』、
    南八畳賢人の間『瓢箪より駒の図』、八畳敷『呂洞賓(実在の神仙)
    と仙人の図』、北二十畳敷『牧の駒図』、
    次十二畳敷『西王母(不死薬を持つ仙女)図』

四重目 西十二間『岩の間、岩に木々』、西八畳敷『龍虎之戦図』、
    南十二間『竹の間;竹色々』、次十二間『松の間;松の根色々』、
    東八畳敷『桐に鳳凰図』、

    次八畳敷『許由・巣父及び故郷の図』(きょゆう・そうほ;皇帝より
    天下を譲ると言われた許由は滝の水で耳を洗い、そこへやってきた巣
    父はけがれた水を牛に飲ませられぬと立ち去った)、

    十二畳敷の内西二間『手まり図』、次八畳敷『庭子の図』『鷹の間』

五重目 絵は無し。

六重目 外柱朱色、内柱金。

    『釈迦十大弟子』、『釈迦成道説法の図』、縁輪『餓鬼と鬼の図』、
    縁輪のはた板『鯱(しゃちほこ)と飛龍の図』、

    高欄・擬宝珠(こうらん・ぎぼうし;手摺と柱頭飾り)彫り物。

七重目 三間四方座敷内金。外側金。

    四方の内柱『昇り龍と降り龍の図』、

    天井『天人影向(来臨)の図』、座敷内『三皇五帝』『孔門十哲
    『商山四皓(しょうざんしこう;漢の時代世を捨て商山に隠れた四人
    の老人)の図』『七賢人の図』、

    狭間戸漆黒。座敷内外内柱漆黒。

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 画題は、日本的美意識と、道教・仏教・儒教思想が混然一体となっている。
最上階の絵画群からは、信長が儒教思想に最も重きを置いていたことが読み取
れる。

 また『公記』には、城内の御殿装飾についても言及があり、三国名所の濃絵
(だみえ;彩色画)が描かれていたことが分かっている。

 ひとつひとつ書き写していると、まさに豪華絢爛というほかはない。さらに
信長愛蔵の茶器の名を加えれば日本一の膨大なコレクションといえるだろう。

 信長はこのように芸術作品に囲まれて暮らしていたが、この城は、同時に他
者に見せるためのものという透徹した意思に貫かれていた。

 それは現代の富豪たちが、美術品のコレクションを誇る姿と異ならない。
自分はこのような一流の芸術の理解者であり、推進者なのだ、と。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 絵師の名は狩野右京光信(1565-1608)。狩野永徳洲信(1542-1590)の長男
である。弟には狩野右近孝信(1571-1618)がいた。

 江戸時代の画人伝『本朝画史』には興味深い光信に関する人物評が書かれて
いた。以下に全文を引用する。


  狩野光信者永徳嫡子也、称右京進。画様不如父意、故未伝家法、永徳没後
  従家族及諸門生、孜々(しし)得家法。為花草禽虫、倭画風情軽柔可愛、
  又倣玉澗(ぎょくかん)之山水、雖不及父不凡。慶長壬寅(みずのえとら)
  年死寿四十二歳令。洛下相國寺法堂天井蟠龍図乃光信之墨痕也。


 筆者の意訳では、


  狩野光信は永徳の嫡子であり、右京進と称する。絵様が父の意に沿わない
  ものであった故に家法を伝授されなかったが、一族の者や父の門人に従っ
  て懸命に努め家法を得た。

  花草鳥虫を描く、やまと絵の風情は軽く柔かで愛すべきものである。また
  玉澗(破墨山水画で知られる中国南宋の画僧)に倣い、父に及ばずといえ
  ども並大抵な才能にあらず。慶長7年(1602)42歳で死去。

  京都相国寺法堂の天井画「蟠(ばん)龍図」は光信の墨画である。

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 (ここでは、光信は1602年に数えの42歳で死去と記されており、1561年生ま
れということになる。)

 この本の著者は京狩野の絵師・狩野永納吉信(1631-97)であるが、永納は
父である狩野山雪光家(1589-1651)が企画した「画人伝」の遺稿を受け継い
で完成させている。

 山雪の師匠で養父であったのが、狩野山楽光頼(1559-1635)である。山楽
といえば永徳門下における光信の兄弟子にあたり、数百人を数える歴代狩野派
絵師の中でも、三本の指に入る天才肌の画人だった。

 永納は、光信とは生きた時代が異なっているからその人となりを知らぬ。

 山雪は同時代人ではあるが、光信が狩野宗家の長(おさ)であるのに対して
自分は弟子筋の京狩野であって、かつ一世代下であった。

 したがって『本朝画史』の光信評は、山雪のものというより、山楽の考えを
よく伝えているものと思われる。

 そう考えると、長命だった兄弟子・山楽が、師匠の倅(せがれ)をどう見て
いたのかが、生きた言葉で書き表されていて非常に面白い。

---------------------------------------------

 安土城の作事が始まった1576年、父永徳に従う光信は15才(本朝画史によれ
ば11才)であるからこれが“初陣”であったろう。

 完成した安土城普請に大いに満足した信長は、1581年大工棟梁・絵師その他
計13名ほどを城に招き、全員に小袖を賜った。永徳は「天下一」及び「法印」
の称号と知行300石を与えられた。息子の光信もこの席に連なっている。

 1582年信長の死によって、安土城天守閣は灰燼に帰したが、永徳一門は新た
な天下人秀吉によって、また宮中や大寺院の要請によって息つく暇もないほど
の障壁画作事に忙殺されることになった。

 1584年~大坂城御殿
 1586年~正親町院御所
 1587年~聚楽第
 1590年~内裏(この年永徳は48才で死去)
 1592年~肥前名護屋城

 これらを彩った障壁画には失われたものが多い。

 1595年~法然院方丈「槇に海棠図(まきにかいどうず)」「桐に竹図」
 1600年~園城寺勧学院客殿「四季花木図」「深山瀑布図」
 1602年~都久夫須麻(つくぶすま、竹生島)神社本殿「花木図」
 1603年~京都徳川秀忠邸「大内裏図」
 1605年~高台寺御霊屋(秀吉・ねねの霊廟)「浜松図」
 1605年~相国寺法堂天井画「蟠龍図」

---------------------------------------------

 これ以外には

 「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県名護屋城博物館)
 「春秋花鳥図屏風」(個人像)
 「豊臣秀吉肖像画」(宇和島伊達文化保存会/高台寺/逸翁美術館等)
 「三十六歌仙図扁額」(宗像大社

など。


 光信の門人であった狩野一渓重良(1599-1662)は、日本で最初の画人伝
『丹青若木集』を残しているが、師匠の光信を評して、

  家法を伝え図絵に長じ、筆力は軽妙自在でありながら強靭かつ重厚なり。
  人物の手足は小さく為し、于花(うのはな)禽鳥の描写に長ずる。
  関白豊臣秀吉公の御殿に花草図に画いたところ、胡蝶が来りて画花に
  遊び戯れ、これを見た人が皆感称したものだ。

という。

---------------------------------------------

 『丹青若木集』には続けて光信の妻についての記述もある。


  右京光信は、土佐将監の聟(むこ)也。


 やまと絵の系譜を継ぐ土佐家は、中興の祖であり足利義政の御用絵師
だった土佐光信のあと、光茂、光元と続いたところで絶えたが、門人だった
土佐光吉(1539-1613)が光元の子女を引き取って宗家を継いだ。

 狩野光信は、亡き土佐将監光元の娘(光吉の養女)を妻に迎える。

 これは曽祖父・狩野元信(1477-1559)が、土佐光信の娘を娶ることで
やまと絵を家法に取り入れ、同時にこの姻戚関係を利用して、禁裏の仕事に
進出した前例に倣ったものだった。

 光信夫婦の間には、のちの左近貞信(1597-1623)が生まれたが、貞信は
後継ぎを残すことなく没したため、狩野宗家は、光信の弟・右近孝信の三男
・安信によって引き継がれることになった。

 1608年夏、右京光信は徳川氏の仕事のため江戸に東下した帰途、桑名で
病没した。享年44とも42とも伝わる。

 父永徳と同じく、光信もまた過労が早世の原因になったと思われる。
光信は兄弟子の山楽と共に、織田・豊臣・徳川に仕えた稀有の画人だった。

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 後世、「狩野光信兄弟は親に似ず至極の下手にて候」(木村探元著『三暁庵
雑志』)と書かれ、「下手右京、下手右近」と噂された光信ではあるが、近年
これらの悪評は覆されてきている。

 筆者が現存する作品の図版を見る限りにおいても、当を得ているとは思えな
い。むしろ、永徳に認められなかった光信は、父とは一線を画する様式を生涯
を通じて目指したのだと思える。

 永徳の「巨樹」に代表される荒々しさ、豪快さ、一転して「洛中洛外図」に
見られるような乾いた緻密さ。

 これに対して光信は、「花木図」に見られる柔らかな潤いを帯びた表現、優
美で繊細、かつどこまでも構成的な画面を追及した。

 父と子は相反する表現を、狩野派の伝統として決定づけたのである。


 山楽の天才も、光信の芸術には瞠目した。

 とはいうものの、『本朝画史』に山楽・山雪・永納ラインが一点だけ特記、
紹介した光信の作品は、相国寺法堂の天井画「蟠龍図」であった。

 これは珍しく、豪快で重厚な、永徳ばりの蟠龍である。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 本作品を語る前に、画像ページの最下段に掲載した資料『桂林漫録』を見て
もらいたい。これは1803年に出版された考証学的な雑文集で、作者は戯作者・
桂川甫粲(ほさん;本名森島中良)である。(兄は高名な蘭学者桂川甫周

『桂林漫録』に収録された「平信長像」


 左に「平信長像」とあり、信長の上半身胸像が拙い筆で写し取られている。
右ページに目を移すと、の3行目から6行目にかけて、


  此二図遠山氏ヨリ得タリ。秀吉ノ像ハ筆者ノ姓名ヲ伝エズ。
  信長ノ像ハ右京光信 公ノ世ニ存セシ時御前ニテ写シタル物ナリトゾ。
  原図ハ画史何某法印ノ家ニ在。


と書かれ、「平信長像」と併せて「豊関白像」も掲載されていた。

 ここでいう「画史」とは、先に紹介した狩野一渓の著作『丹青若木集』を
所有していた中橋狩野宗家のことを指している。

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 桂川甫粲は、遠山という人物が狩野家において写し取ったと思われるこの
2枚の拙い模写を入手した。

 それらの元絵である光信作の「平信長像」原図は、彼の子孫である江戸中橋
狩野宗家の某法印の家にあるというのだが、

 『桂林漫録』が出版された1803年当時は、光信→貞信→安信と続いた中橋狩
野家に法印はおらず、同時代に法印と呼ばれた絵師は、木挽町狩野家の養川院
惟信(1753-1808)だけだった。

 或いは『桂林漫録』著者・桂川甫粲の勘違いかもしれない。

 いずれにせよ1803年頃、原図は中橋狩野家か木挽町狩野家のどちらかにあり
甫粲は遠山を通じて、それが「光信作の信長の寿像である」という狩野家代々
の口伝を耳にしたということであろう。

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 さて、狩野光信が信長の面前で写生したというこの「原図」は、画像
ページのトップに掲載した「信長公像」であるのかどうか。

 この肖像画は、津山藩主(現在の岡山県津山市)だった松平斉民(1814-
1891)が『芸海余波』と自ら名付けた、綴本(とじほん)に貼り込まれた
素描であり、

 全部で17冊ある内の第7集の5ページ目に貼り込まれている。

 貼り込まれた素描の紙寸法は、54.0×40.8cm。

 これは早稲田大学蔵書アーカイブの『芸海余波第7集』の表紙写真のページ
に添えられた30cmの定規を基準にして割り出した。

 このサイズは、信長の死後繰り返し描かれる桃山期の遺像とほぼ一致するの
ではないだろうか。

早稲田大学蔵書目録『芸海余波』

請求記号:イ05 1646 07 23カット(5番目)

 

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 次に、本作の右上に記された覚え書きを見てみよう。

 筆者はこの部分をPHOTOSHOPで拡大し、コントラストとシャープ補正をした
上で、くずし字検索とくずし字解析を行った。(専門家でないため読み違い
の可能性がないとはいえない。)

  信長公像
   モエキ上下
   空色小袖
   (一行不明)
   金扇子

と、筆者は解読したのだが、これらの意味するところは、信長の着衣に関する
留め書き(メモ)である。

  信長公像
   裃(かみしも)は萌葱色(緑)
   小袖は空色
   (一行不明)
   扇子は金色

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 つまり、これらはあとで本制作を行うときに必要な彩色の情報なのだ。
(不明の一行の示すところは刀の柄の色であろうか。)

 光信は、おそらく信長の人物写生の際に、墨と朱以外は携帯しなかったはず
である。また現在でもごく短い時間で写生を終えなければならない場合には、
こうした留め書きはよく行われている。

 そして、この光信の素描の留め書きは、100年後に描かれた狩野常信
による「織田信長像」(名古屋市総見寺所蔵)の配色と完全に一致する。

 この肖像画は、織田信長の孫・貞置(1617-1705)が、狩野永徳のひ孫・
常信(1636-1713)に発注したものであり、永徳が描いたといわれる織田信長
像を忠実に模写したものであった。

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 再び、墨線に淡彩を施した早稲田本の信長公像を検討しよう。

 装いは普段着らしく、情感の細やかな表情をしている。

 酒をたしなまない武将ではあったが、顔には赤みが差し、いかにもくつろい
だ風情が感じられ、機嫌のいいときの信長はかくやと思わせるような生々しい
リアリティがある。

 信長自身には、肖像画を描かれているという意識はなさそうである。

 これは御前に控える絵師・狩野永徳や大工の棟梁・岡部又右衛門らと、満足
げに歓談している姿を思わせるものではないだろうか。

 逆にいえば絵師の、像主に対する共感が見えるのである。


 さらに、像主を形作る線の動きを子細にたどってみると、早稲田本と総見寺
本の性質の相違が明らかになる。

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 信長の容貌の一方は柔軟で、他方は杓子定規である。

 着衣の線描を見ても、早稲田本では筆が自在に走る感があり、絵師の自然な
息遣いをも感じさせるが、総見寺本では機械的に正確な線が引かれているだけ
で、緩急がなく、まったく生き生きとしたところがない。

 もし早稲田本が、現在の所有者・早稲田大学図書館の主張する通り、江戸時
代の写本であるなら、その線描は、正確ではあるがたどたどしい、総見寺本に
近いものであったはずである。

 また早稲田本に記された留め書きの書体や筆勢が、光信の作業の必然性を感
じさせるのである。これが後世の絵師による模写だとしたら、空前絶後の驚嘆
すべき腕前といえるのではないだろうか。

 筆者には、上に述べたような線描の性質や絵のサイズ、さらに情感あふれる
容貌の描写から判断して、早稲田本こそが信長の寿像と思えてならない。


 この早稲田本信長像を収集した松平斉民(1814-1891)は、第11代将軍徳川
家斉の14男である。

 藩主生活の半分は江戸の藩邸にあり、時代的にも経済的にも政治的理由にお
いても、光信の「原図」をしかるべき費用を払って狩野家絵師から入手したと
推測することに無理はないはずである。


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〈参考文献〉

「絵師 ものと人間の文化史63」武者小路穣著(法政大学出版局)1990年

「障壁画史 荘厳から装飾へ」水尾比呂志著(美術出版社)1978年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

狩野永徳展図録」京都国立博物館毎日新聞社)2007年

三井寺秘宝展図録」東京国立博物館日本経済新聞社)1990年

「日本美術史事典」(平凡社)1987年

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「日本古寺美術全集25 三十三間堂と洛中・東山の古寺」(集英社)1981年

「世界大百科事典」(平凡社

「日本百科大事典」(小学館

『藝海余波(第7集)』松平斉民収集
早稲田大学図書館WEB展覧会】No.32館蔵「肖像画」展
-忘れがたき風貌- Part.2

「桂林漫録(上巻)」桂川忠良著(浪花書林)1803年
国立国会図書館デジタルコレクション】

「本朝画史(下巻/専門家族)」狩野永納撰(佚存書坊)1833年
国立国会図書館デジタルコレクション】

「丹青若木集」狩野一渓著1655年(下記に収録)
日本画談大観(下編伝記)」(目白書院)1917年
国立国会図書館デジタルコレクション】


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織田信長の最も有名な肖像画(長興寺所蔵)


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【1】 織田信長肖像画(一)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について 
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長肖像画(一)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 織田信長を描いた肖像画の中で興味深い作品が数点存在する。

 織田信長肖像画(一)では、1583年に描かれた愛知県豊田市長興寺の
信長像を取り上げる。

 またこれと比較するため、現在は神戸市立博物館に収蔵される、同年
描かれた束帯姿の肖像画も併せて紹介。

 長興寺の肖像画はこれまで歴史の教科書に数多く掲載されているため、
多くの方の脳裏に浮かぶのではないだろうか。


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◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名:織田信長の肖像
作者名:狩野宗秀季信
材 質:紙本著色(竹紙に日本画・軸装)
制作年:天正11年(1583年)
所在地:三河・長興寺(愛知県豊田市
注文者:与語久三郎正勝
意 味:信長の一周忌にあたる天正11年(1583年)6月2日に、家臣であった
注文者が報恩のために描かせて寺に寄進した。


◆【3】像主・織田信長(1534-1582)について━━━━━━━━━━━━◆

 室町後期の日本において、天下統一の寸前まで到達していた戦国大名
ある。また経済にも通じた優れた政治家だった。

 尾張名古屋の守護代の家臣だった一族に生まれた織田信長は、1582年までに
現在の中部、北陸、近畿、中国地方の一部を含む17の県に該当する国土を
ほぼ手中にしていた。

 さらに中国、四国の平定も目前に控えていたが、家臣明智光秀の謀叛に
合い京都本能寺にて自害した。

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 彼は一面において、芸術家的な審美眼と才能の持ち主であり、
狩野派絵師や茶人の千利休など多くの芸術家を活用している。

 部下への褒美に領地を与える代わりに、高名な茶器や、茶会を開催する
権利を与えたが、これは信長が独自に考案した制度であり、かつまた
敵対する大名に対しては美術品を贈ることで懐柔を試みたりもした。

 幸若舞や南蛮渡来のファッションへの嗜好。
天下の名馬を揃えた御馬揃えの大行進の企画。
そして天下の奇城といえる安土城の綜合デザイン。

 現代に生まれたとしても、当代一流の人物だったろうことは
想像に難くない。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 絵師の名は狩野宗秀 秀信若しくは季信(すえのぶ;1551-1601)。
(秀と季が混同されて相伝。)元秀とも号す。


 足利幕府の御用絵師は、やまと絵系の土佐派、及び能阿弥・芸阿弥・
相阿弥という、漢画系の阿弥派絵師が有名であるが、

 室町後期から江戸時代を通じては狩野派の全盛期である。


 狩野家絵師初代の正信(1434-1530)は、一族で初めて幕府の御用絵師
として取り立てられた。

 第2代の狩野元信(1476-1559)は土佐派との姻戚関係を持つことで、
漢画的な画風の中に大和絵的な柔らかさを取り入れ、狩野派の様式を確立
させた。

 第3代 狩野松栄直信(1519-1592)は穏健な画風で知られている。

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 信長の時代に狩野派一門を率いていた総帥が 第4代 狩野永徳洲信
(くにのぶ;1543-90)であり、

 本作品の作者である狩野宗秀はその弟だった。宗秀の下には
休白長信という弟もいた。

永徳の名声は、当時も今も非常に高い。安土城の内部装飾の総責任者で
あり、信長のお気に入りの絵師であった。

 信長の没後は天下人・豊臣秀吉聚楽第大阪城の障壁画を一手に
引き受けた。


 そのために、永徳の弟の宗秀に強い光が当ることはないが、
「四季花鳥図屏風」を見るとかなりの力量を持っていたことが分かる。

 ぎっしり埋め尽くされた画面の中の花鳥に、少しも違和感がなく、すべて
は、その空間にあるべきものであるがごとくに存在しているのである。

 その障壁画の構図には緊迫感があり、天才的なひらめきを感じさせる。
肖像画もよくし、「遊行上人絵」などの細密画にも長けていた。

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 宗秀は一族の長である兄を立て、尽くし、その指図に従って
万事、仕事を行っていたようである。

 1576年信長の下命により、永徳が一族郎党をあげて安土城の装飾工事
に参入するとき、宗秀と父・松栄は加わらなかったが、これは永徳の指示
み従ったためである。

 信長の仕事を請け負うことは名誉であると同時に、大きな危険を伴う。

 万が一、出来上がった障壁画が信長に気に入られなければ、どのような
咎めを受けるか分からない。よって狩野家全体が処分を受けることの
ない様、永徳に次ぐ実力者の宗秀を外したのである。

 こうして京都に工房を構えていた永徳の家屋敷はすべて弟・宗秀に譲渡
され、信長以外の顧客からの仕事を永徳に代わって差配することになった
のだが、

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 幸いなことに、1579年に完成した安土城天守閣障壁画の出来は、信長の
予想を超えるものであったため、永徳の危惧は杞憂に終わった。

 永徳は信長によって天下一と法印の称号を与えられた。

 信長の死後、狩野家は新たな天下人・豊臣秀吉大阪城聚楽第などの
装飾工事に大車輪の活躍を見せる。

 宗秀自身も信長時代から、秀吉の仕事に携わっており、覚えもめでたか
ったようである。1590年に、兄永徳が亡くなったときには内裏の障壁画を
引き継いで完成させ、1594年頃には法眼の称号も得ている。

 永徳の長男・右京光信(1561頃-1608)とは10才ほど年が離れていたので
宗秀が一時的に狩野宗家を引き継いだ形になったと思われる。

 1601年自らの死に当たっては、狩野宗家が絶えることのない様、また
跡継ぎの甚吉を、よきように取り立てていただきたいと、光信に宛てて
遺言書をしたためた。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 信長は裃(かみしも)姿で青畳の上に座す。衣は白い小袖で、胸元に赤い
襦袢をのぞかせている。

 袖なしの上着である肩衣は浅葱(あさぎ)色。袴(はかま)も同色の同じ
生地であり、裃という形式で呼ばれる。

 緑、赤、白という取り合わせは、いかにも婆沙羅(ばさら)で信長らしい。
緑とその補色の赤との面積対比が理想的で、赤をより鮮やかに効かせている。

 裃の両肩と両膝に、将軍足利義昭から貰った白い桐の紋。

 白地の小袖には一面に白い桐唐草模様が施されている。緻密で丁寧な仕事が
画像から感じられるだろうか。

 腰には小刀を差し、右手には金地の扇子、左手はこぶしを軽く握る。

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 青畳は、白地に黒で菊花紋を編み込んだ大紋高麗縁(こうらいべり)仕様
で、これは親王・摂関・大臣のために用いられるものである。


 背景はなく、明るい黄土色で処理され、
上部の画賛の位置には、以下の三行が記されている。


  天徳院殿一品前右相府
  泰岩浄安大禅定門
  天正十年壬午六月二日御他界


 「天徳院殿泰岩(たいがん)浄安大禅定門」とは、浄土宗・阿弥陀寺の清玉
上人ゆかりの戒名。信長の官位は正二位で右大臣職は返上済であったが、死後
従一位が追贈されたので、一品前右相府と記されている。

 最後に、天正十年壬午(みずのえうま;じんご)六月二日死去とある。


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 下部には、

  右信長御影
  為御報恩相
  当於一周忌之
  辰描之三州
  高橋長興寺
  与語久三郎
  正勝寄進之
  天正十一年六月二日

 「信長の一周忌にあたり、報恩のため肖像画を描かせ、
三河高橋長興寺に、与語久三郎正勝が寄進」とある。

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで勝利した織田信長は、翌年三河
攻め入り金谷城主(別名衣城)の中条氏を滅ぼした。

 建武2年(1335年)中条秀長によって創建された長興寺は、永禄10年
(1567年)信長によって焼失。その後に信長の家臣で金谷城代となって
いた与語正勝の手によって再興。

 正勝は、主君によって焼かれた寺を再興しておいた上で、その寺に
おいて主君の一周忌の法要を営んだのであり、それに間に合うように
狩野宗秀に肖像画を作成させたのだ。

 この狩野宗秀という作者名は、紙裏に「元秀」という印があるため、
判明したものである。

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 次に、信長の顔を見てみよう。
その眉間には、ハの字型に皺(しわ)が刻まれている。

 信長の眉間に刻まれた皺というのは、家臣を震いあがらせるような
不吉なものであったはずである。

 信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣した留守中に、外出
したため成敗された可哀想な女中たちの話はご存知だろうか。

 主君が外泊の予定を取り止めて早帰りしたところ、女中連がいない。
激怒した信長は、帰宅した彼女たちはそれをかばった長老もろとも
切り捨ててしまったのだ。

 茶坊主が信長の不興を買い棚の陰に避けたところ、棚ごとたたき切られた
という怖ろしい話も記録されている。

---------------------------------------------

 当時第一級の知識人で、朝廷や足利幕府に顔が利いた明智光秀でさえもが
扇子で叩かれたり足蹴にされたりしているようである。

 家中の者でなくとも、客人の面前で、打ち据え折檻された役者梅若大夫の例
がある。それは1982年5月19日のこと。

 客は徳川家康、3月に完遂した武田勝頼討伐の労をねぎらうための宴の席
であった。先に演じた幸若大夫の舞に比べ、梅若の能が下手だったという
理由である。

 これらの言い伝えから分かることは、信長が短気であったという事実で
ある。

 これは、信長に謁見したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書き残
した「人と語るに当り、紆余曲折を憎めり」という信長像にも合致する。

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 ただし、絵の中の信長は、拳を強く握り締めているようではない。

 眉間のハの字の皺も、よく見ると取って付けたような印象がある。
何より眉毛と連動していないのだ。

 ためしにこの皺だけを覆い隠してみると、信長は優しい顔をしている。
よく見知っているつもりでいたが、これは意外であった。

 この絵は、信長の一周忌のために作成された追慕像である。


 実はもう一点、一周忌のために作成された追慕像が存在する。

 画像のページに〈参考図〉として紹介した、神戸市立博物館所蔵の束帯姿
の信長像であるが、クローズアップしてみると、こちらの肖像には眉間の皺
が描かれていないことに気づく。

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 賛を見てみる。


 前住大徳現住総見古渓老拙賛
  天正十一年歳号癸未仲夏上浣日
  嘆
  天地何容箇一人
  心高出日月之上
  金枝永茂萬年春
  厳冷吹霜面目真
 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士肖像


 一行目に、
 大徳寺前住職で、総見院現住職の私、古渓宗陳(こけいそうちん)の賛
とあり、

  天正十一年 癸未(みずのとひつじ;きび) 六月上旬日
  嘆く…

 以下、信長を讃える七言絶句の漢詩が続き、
 八行目に、

 古渓宗陳による戒名「総見院殿泰巌(たいげん)大居士」及び、
 太政大臣従一位が追贈されたこと、そしてこれが信長の肖像である
と記されている。

---------------------------------------------

 この肖像画の作者は不明であるが、筆者は長興寺本の作者と同じく
狩野宗秀ではないかと推測している。

 信長の死んだ1582年において、狩野派の主要な絵師の年齢を
確認してみると、

 宗秀の父・松栄63才
 宗秀の兄・永徳39才
 宗秀31才
 永徳の弟子・山楽23才
 永徳の長男・光信21才

 この中で、信長の生前に肖像(寿像)を描いたと伝わっているのは
狩野光信ただひとりである。

 光信の肖像画では信長は裃姿であるが、容貌は痩せて面長であるため、
本画像の容貌とは異なっている。これを元に描いたと思われる永徳の肖像画
も同様で痩せて顎がほっそりしている。

 山楽が信長を描いた絵も記録も存在しないが、信長の弟・有楽斎を描いた
ものを見ると、これは寿像であるためかもしれないが、かなり像主に肉薄
している。有楽斎の心情に寄り添って見え、表現が柔らかく温かい。

 ために、冷たく突き放した感じで客観的に描かれている本作品とはあまり
共通点がない。松栄は年齢からいって現役ではないだろう。

---------------------------------------------

 長興寺本と神戸市立博物館本では、線の質が異なるため別人の作品と
見えてしまうのだが、共通点がいくつかある。

 第一が耳の表現で、信長の耳の形状がほぼ同じである。宗秀は、甥の光信
が描いた寿像を参考にしていると思われるが、この耳の形は全く異なって
いた。

 一周忌のために描かれた2点は制作時期が近いため、出来上がった一方の絵を
別人に貸し出したために、耳の形状が似たのだとは考えにくい。絵師の描き癖と
考える方が自然である。

 顎の付け根の形も、ほっそりした光信・永徳作品とは異なり、えらが張って
いる点が共通する。口髭の形も同様である。

 頭の大きさだけは異なるが、これは体位と絵師の視点間の距離によるもの
だろう。長興寺本では信長は胡坐(あぐら)坐りだが、神戸市立博物館本
では、踵を合わせた合蹠(がっせき)坐りをしている。

 胡坐の姿勢では上体が前かがみになるため、顎を引いている。したがって
頭部が大きく見えるが、合蹠の姿勢では、そっくり返り気味のため、顎が少し
上がっている。それで頭が小さく見えるわけである。

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 これらの2点は、信長死後の作品であり、像主を前に観察して描いたもの
ではないから、西洋の遠近法を持ち出す必要もないが、おそらくは狩野家に
伝来する「束帯像の種本」の図像がこのように描かれていたと想像できよう。

 博物館本は、頭部の形を変え、束帯像と合成したものであるせいか、
図解的な絵柄であり、顔に引かれた目鼻の線描も、どこか説明的に見える。

 これに対して長興寺本は、光信の下絵を元に、宗秀の天分が創意を加えた
ような伸び伸びとした自在さが感じられる。

---------------------------------------------

 私の推測どおり、神戸市立博物館本の作者が宗秀であるにせよ、別人にせよ
確実に異なるのは、眉間の皺の有無である。

 光信の寿像には皺は描かれていないので、博物館本の方が原本に忠実で
あるといえる。

 晴れ姿である束帯姿で、怒りを表す必要はなかったかもしれない。

 裃姿であっても同様に、光信作品を写す絵師にとって、怒りを表現する
必要はまったくなかった。

 であるならば、長興寺本の、あの特徴ある眉間の皺は、寄進者である与語
正勝が描かせたと云えるだろう。彼には皺を添えたい気持ちがあったはずで
ある。

 信長の家臣たちにはあの皺が鮮明に、記憶に残っていたのだ。

---------------------------------------------

 信長の、比較的穏やかな表情に、意図的に加えられた皺は、見る者に、
逆に強いインパクトを与えるようである。

 後年この肖像画は後世の織田信長のイメージを決定づけることになった。

 実は頬の輪郭をたどる線も、寿像の通りではなく、やや丸っこい。
ここには、画家独自の筆意といったものも感じられる。

 絵の出来を、寿像のリアリティや写実性と比較するわけにはいかないけれ
ども、追慕像としては、信長の人格を彷彿とさせる一流の仕上がりとなって
いる。


---------------------------------------------

〈参考文献〉

「戦国武将の肖像画」二木謙一・須藤茂樹著(新人物往来社)2011年

肖像画の視線」宮島新一著(吉川弘文館)2010年

狩野永徳展図録」京都国立博物館毎日新聞社)2007年

「日本肖像画史」成瀬不二雄著(中央公論美術出版)2004年

「日本美術史事典」(平凡社)1987年

「ブック・オブ・ブックス 日本の美術33 肖像画」宮 次男著(小学館
1975年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「日本美術全集18」宮島新一他(学研)1971年

「世界大百科事典」(平凡社

「日本百科大事典」(小学館

「桂林漫録(上巻9」桂川忠良著(国立国会図書館デジタルコレクション)
寛政12年/1800年

ウィキペディアWikipedia)」


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肖像画の依頼|油絵 水墨画 注文制作 |専門店【肖像ドットコム】

水墨画とは、油絵とは、卵黄テンペラとは…
どのような絵画技法なのか、素材や歴史的背景について解説。

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